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【動画】NHK大河ドラマ「光る君へ」12月15日放送、第48回最終回「夢の続き」紫式部の最期(仮)第48話(仮)あらすじ予測、先読み解説 横浜流星さん光源氏役で登場(推測)か

NHK大河ドラマ「光る君へ」12月15日放送、第48回最終回「夢の続き」紫式部の最期(仮)第48話あらすじ予測、先読み解説、この動画は番組放送前にあらすじを予測した情報や、史実をもとに推測した物語になっています。実際の放送内容とは異なりますのでご了承ください。

放送日(推測):12月15日15分拡大(NHK総合午後8時~午後9時)
過去大河ドラマ作品最終回放送日
どうする家康 48話(2023年12月17日)
鎌倉殿の13人 48話(2022年12月18日)

最終回特別ゲスト
横浜流星さん
光源氏役で登場(推測)

紫式部の最期(推測)
1016年7月23日
47歳で死去

1011年、一条天皇は病に倒れ、三条天皇が新たな天皇に即位します。そして、退位した一条天皇は、出家しますが、その3日後にこの世をさります。越前守を任されていた為時は、その2年前の1009年に、朝廷の最高機関の太政官の左少弁をまかされていましたが、1011年に再び越前守となり受領を務めます。その際、息子の惟規も同行しましたが、惟規はまもなく現地で亡くなってしましいます。

まひろは1010年に源氏物語を書き終え、一条院の女院彰子(上東門院)の女房役として勤めていましたが、1014年6月、まひろは重い病気を患い体調を崩してしまいます 。それを知った為時は、越前国守の任期を1年残しながら越後守を辞任し帰京します。そして為時は、体調がすぐれないまひろの病状回復を願い、三井寺にて出家します

夕方、土御門殿から火の子が上がり、建物は、炎と煙に包まれます。火事だど知ったまひろは、土御門殿に保管してある源氏物語の原書をとりに建物の中に入って行きます。それを見た道長は、まひろを助けに行きますが、まひろは建物の中に倒れており、道長に抱きかかえられ、助け出されましたが。

1017年、焼け崩れた土御門殿は、諸国の受領が資財を分担して再建されました。まひろの娘の藤原賢子は、18歳になり母の後を継ぎ一条院の女院、彰子に女房として出仕します。新しく建った土御門の部屋では、焼けてしまった源氏物語を書き直すまひろの姿がありました。

まひろは、いま、源氏物語を書き終え、筆を下ろします。
まひろが遠くをみつめると、遥か彼方には、現代の東京の街が見えました
終わり

藤原道長は1019年3月、病となり剃髪して出家し1027年62歳で亡くなりました。道長の亡骸は12月7日に鳥辺野にて火葬されます。

ききょう(清少納言)は、藤原棟世と再婚し任国(にんごく)摂津に移り藤原棟世(むねよ)との間に小馬命婦(こまのみょうぶ)を出産します。しかし、まもなく夫の藤原棟世を亡くなり小馬命婦は幼くして高階道順の養女になって藤原彰子に仕えます。

小馬命婦の娘は、紫式部の孫で紫式部の一人娘の大弐三位(だいにのさんみ)が生んだ息子の高階為家(ためいえ)と歌会で偶然出会い、互いの才能に惹かれ合います。しかし、身分違いの恋であることを知り心を抑えようと努めます。

 

源氏物語について
紫式部は1001年5月10日に夫の藤原宣孝と死別した後、宮仕えする前の1005年頃までに源氏物語の大部分を書き上げていたようです

源氏物語の記録
平安時代中期の寛弘5年(1008年)11月1日、中宮彰子(一条天皇の妃)の五十日の祝い の席で藤原公任(きんとう)が「このわたりに若紫やさぶらふ」と言いながら紫式部をたずねてきたという記述が「紫式部日記」あります。

「若紫」は源氏物語の第1帖のタイトルで、主人公の光源氏が初めて紫の上と出会う物語です。藤原公任は「このあたりに若紫という人がいるのですか?」源氏物語の熱狂的なファンである公任は、紫式部を目の前にし思わず作品中の登場人物である「若紫」について、冗談めいた質問したのではないかとみられています。そして源氏物語は1008年には「若紫」の巻まで成立していたとみられています。

源氏物語の原本については、紫式部は実家から局に持ってきて紫式部が彰子の御前に出ている間に道長が持ち去ってしまったという情報がありました。源氏物語の原本は、藤原道長の娘の妍子に与えられと紫式部は、「紫式部日記」に以下のように感想を述べているそうです。

よろしう書きかへたりしはみなひき失ひて、心もとなき名をぞとりはべりけむかし

【現代語訳】
まずまずという程度に書き直したものはみな紛失してしまったし、(手直ししてない本が妍子様に差し上げられて)きっと気がかりな悪い評判が起こることでしょう。

寛弘5年(1008年)紫式部は中宮彰子の提案により源氏物語を清書する日々を送っていました。色とりどりの紙を選び物語の元本を添えて何人もの人に清書を依頼し手伝ってもらっていたそうです。藤原道長は、上等の薄様の紙や筆、墨、硯などを持ってきて源氏物語の冊子造りを応援し1010年代の前半には源氏物語54帖は完成していたとの情報がネットで見られました